北海道うららか散歩

  • 宏楽園の紅葉3
    北海道に住んでいるので、うらうらと散歩中に携帯で写真とったりします。並べておきますので、和んでください。下のほうの桜が一番古いです。
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けんさく。

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ここはあえてスピリチュアルで…

カトリック関係でもいいんですが、あえてスピリチュアルで…
前回のエントリを読んでいただければわかるように、
わたくし今悪魔の支配下です。
こんなエントリいつまでもトップでさらしておくのはよくないとおもったので
何か書かなきゃなと思ったのですが
ほんと教会の尊敬してる奥様は体調悪くしているし
そとは吹雪だし
先輩は咳が止まんなくて痩せていくし(おいおいしなねーだろうな??癌なの隠してんじゃねーだろうな??)
教会関係でいいことといったら件の女のチカンが4回続けてこなかったことくらい…

と思っていたら、久々に珍しい体験をしたので、記事ながすのに書いとこうかと思います。
今朝4時におきまして、昨日の午後からストーブを消してあったのでとても寒くて、あわててストーブをつけにいき、部屋が温まるまでと思って、電灯をつけて布団にもぐりこみました。布団にもぐっても寒かったので、服を着て入りなおしました。
そのうちにうとうとしてしまったようです。
昨日夜の薬を飲み忘れたので、機嫌は大変に悪く、姉に言われたいやがらせや、先生(心療内科)に言われた一言を延々呪っていました。
そのうち、ふとこんなことを思い出しました。
「このあいだ聖書と典礼に『キリスト・イエス』って書いてあったからまちがえて『イエス・キリスト』って読んじゃったじゃないか。だいたいどっちが正しいんだよ、イエス・キリストなのか、キリスト・イエスなのか。え、どっちなんだよ、キリスト・イエス、どっちでもいいのか、イエス・キリスト、キリスト・イエス、イエス・キリスト…」
そう何度か繰り返すうちに、頭のてっぺんから何か心の薬がしみこむようにすーっと柔らかい感触が広がって足のほうに降りて行きました。
…そしてわたしの呪いはそこで収束し、ここちよい眠気が訪れたのです。
 えー、とおもいました。
 カトリックになってから5年目ですが、イエス・キリストなのかキリスト・イエスなのかわかりませんがともかく主の御名を繰り返すことで、直接的な恩恵があったのは初めてです。(天使様への祈りは通じたことがありますが…。)
 昔一人で天使様相手にスピリチュアル修業していた時期は、時期が時期だっただけあってか(私は鬱傾向のニートで、母は癌でとても大変だった)しょっちゅう細かい恩恵があったものでした。例えば偶然JRが3分遅れて、ギリギリでのれたこともありますし(まるで走る私を待っていてくれたかのようでした)、わたしが外を歩いているときだけ吹雪が止むなんて、ほとんど毎日のことでした。絶対足りるはずのないお金が月末まで足りて、そのときはなんとも思いませんでしたが(家計簿もつけていたので)今一人になってその金額の乏しさを思うと、まるでエリヤの居候したやもめのうちのようでした。祈ればバスは時刻を無視してきましたし、席は必ず一つだけあいていました。

 わたしはそんなんで、祈りの力とか、運の調整をしてくれる存在とか、辛いときに背負って歩いてくださる方とかの見えない存在を確信するようになりまして、カトリックを信じたのも、そういう体験があったからなんです。
 「あなた詳しいみたいだけどなんでカトリックにしたの。ほかの教会も近くにあるでしょ」と神父様に何度か聞かれたのですが、わたしは多分、なんというか、「キリスト教神秘主義」を非科学的とか非現代的とかいう理由で最も退けていない、いまだに丸ごと奇跡を信じているのはたとえそれが形式的なものであっても、カトリックか東方教会のどちらか、だと心のそこでおもっていた、というのもいくばくかありました。プロテスタントや東方教会は金がかかりそうとか、うちの教会はおやつがでるとか、そういう部分もおおきかったし、多分一番大きかったのはいつもいってる向田ファミリー歯科の並びにあったから精神的距離が一番近かった、なんてあたりかもしれないんですけど…。
 ところが洗礼を受けてから、恩恵はガタリとウソのように減ったんです。求道者期間は、教会にかよっている喜びみたいなのがあったり、みんなで祈ることの心強さや、その祈りの太さに感動安心して、また、「神父様に教え習ってるんだぜ、これ以上があるかい」みたいな気持ちもあって、個人的に慢心したというのもあったかもしれませんが、ちょっと狂信者的な人に月イチで電話をよこされて、も●みとう真っ青な説教をされたり、
いろいろおかしなこともあったのです。
 変なことは洗礼を受けてから多くなり(洗礼そのものはすごかったです。うちの神父様霊力あるなーと思いました。油をぬったところが最初ばちっとして、そのあとクリスマスパーティーのあいだずっとびりびりしたんです。)(こんな経験してたので堅信は何もないし堅信名も呼んでくれないしがっかりでしたよ)母が亡くなって母方の神道の守りが消えたあとにはまあ鬼はでるわ母の幽霊はでるわで大変でした、父も死にましたし。Iさんがうちに上がり込んできたのもこのころですね。
 うちは神父様がマリア崇拝の強い方で(若い頃マリア院に住んでいたので、「マリア教の神父さん」とまでよばれていたらしい)、教会も被昇天の聖母というお御堂なんです。それでマリア信仰が強い教会なんですが、私は母が亡くなってやっと母との確執を乗り越えたばかりで、聖母に祈るというのにまだ抵抗があったんです。まあ、みなさんがロザリオをくださるので(6本ある…)ロザリオだけはたまにやっていましたが…。(特に母や父の付き添いで暇だったときはロザリオを繰っていまして、声は出していませんでしたが、母も父もマリア様から手を差し出されたそうです…父はマリア様とはわからず「子供抱いた若い女」といってました。母は「ごめん…マリア様断っちゃった…」とわたしにいってました。)それで、教会で週一時間もミサにあずかってるわけですし、洗礼をうけてから、信心が足りなかったかも、というのはほんとあるんですが、洗礼を受けてから本当に祈りが通らなくなった、という実感があったんです。最初のころは、日曜日早起きして、一時間ミサにあずかると、もうヘトヘトというのもあって何日も立ち直れなくて(あ…すいません、鬱傾向なもんで…。)もう十分だろう、と、思ってしまったというのも確かにありました。それにしても通らない。だって都合の悪いときだけ祈っていても天使様は祈りを聞いてくれたのに、今度はちゃんと勉強しててもだめなの…?…かえって集団でいることはよくないの?勉強することはよくないの?と大そう悩みました。
 多分、一般の信者は、変に聖書のエピソードをたどってその気になったり、みんなで太いいのりをささげて安心したりすることは、まあ、マニアックな趣味でしかないのかもしれません。それより一人で熱心に、苦しみをささげてキリスト・イエス…だかイエス・キリストだか…を寝ぼけて無心に唱えたほうが、信頼とか信仰という形に近いのかもしれません。

わたしは今回の恩恵をいただいて、本当にショックを受けましたし、信仰ということを考えてしまいました。思えば母や父の枕辺で、ロザリオを繰っていたときも、疲れ切って寝ぼけた状態に近かったような気がします。そして主のことなど何も知らずに無心に天使様にお願いとお礼を繰り返していた頃、母が抗がん剤治療に苦しんでいたころ、あのころこそが、ある意味で本当に天に通じていた形だったのかもしれないと思っています。そして本当に苦しんでいるときほど、天は人を助けてくれるものだと感じました。

朝方の眠りのせいか今日はとてもすっきりしています。
キリスト・イエスに栄えあれ。

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